秋の訪れを感じる頃、多くの方が思い浮かべる風物詩のひとつに「十五夜」があります。十五夜とは旧暦8月15日の夜に見られる満月を指し、別名「中秋の名月」とも呼ばれています。昼間の暑さが和らぎ、澄んだ夜空に浮かぶ丸い月は、どこか懐かしさや安らぎを私たちに与えてくれます。古くから日本人は、この満月に感謝や祈りを捧げ、自然とともに生きてきました。その営みは現代の私たちにも沢山の気づきをくれるものです。
■ 十五夜の由来と日本人の心
十五夜は中国から伝わった風習が起源とされ、日本には平安時代に広まりました。当時は貴族たちが庭に舟を浮かべ、酒を酌み交わしながら詩歌を詠む優雅な行事でした。その後、庶民の生活に根付き、収穫への感謝や豊作祈願の意味が込められるようになりました。月見団子や収穫物をお供えし、ススキを飾る習慣はその名残です。
月は満ち欠けを繰り返します。その姿は「生と死」「始まりと終わり」を象徴するとされ、人の一生に重ねて捉えられることも少なくありません。満ちては欠け、欠けてはまた満ちる月の姿は、命の循環や人と人のつながりを思い起こさせてくれます。
■ 月と祈り、そして弔い
葬儀においても、「祈り」や「感謝」の気持ちは欠かせない要素です。大切な方を見送るとき、私たちはその人が歩んできた人生を振り返り、感謝の言葉を胸に刻みます。十五夜の満月を見上げるときに感じる静けさや厳かさは、葬送の場に流れる時間とよく似ています。
例えば、夜空に浮かぶ月を見ながら「今もあの人もどこかで同じ月を見ているのだろうか」と思いを馳せる方もいらっしゃるでしょう。月は遠く離れた人々を同じ光で照らし、心をつないでくれる存在です。ご家族を亡くされた方にとっても、月は故人と心を通わせる象徴となり得ます。
また、月には「再生」のイメージもあります。欠けては満ちるその姿は、喪失の悲しみの中から少しずつ立ち直り、また歩み始める人の心に寄り添います。葬儀の場で流れる涙も、やがては心を潤し、新たな日々へと導く一滴になるのかもしれません。
■ 十五夜の月を眺めることの意味
十五夜には「今を見つめ、感謝する」意味合いが込められています。秋の夜空を見上げ、豊作を祈る人々の心には、自然への畏敬と同時に「生かされている」ことへの感謝があったはずです。現代の私たちが十五夜に月を眺めるときも、その思いは変わりません。
葬儀という時間は、「故人を見送る」だけでなく、「自分自身を見つめ直す」機会でもあります。大切な方を失うことは深い悲しみを伴いますが、その悲しみを通して、日々を共に生きてきた時間の尊さに改めて気づかされます。十五夜の月を仰ぎ見ることは、そんな自分の心を整え、これからの人生に向けて新たな祈りを捧げるひとときになるのではないでしょうか。
■ 自然と心を行き来する時間
十五夜にお団子を供える行為には、「団らんを共に」といった温かな願いが込められています。ススキは魔除けとされ、自然の中の存在を尊び、安心と日々の平穏を祈る気持ちが現れています。このような自然に根ざした行為と、葬儀に込められた「祈り」と「供養」の心は、切っても切れないつながりがあるように思います。
例えば、十五夜の月を見上げながら「どうかあの人にも、この美しい月が届きますように」とそっと心で語る。それだけで亡き方との間に小さな対話が生まれ、自然と人の営みを結ぶ「ひととき」がそこにあります。
■ 祈りのかたちは変わっても、心は変わらない
現代では生活が忙しく、祈る時間を持つことが少なくなったかもしれません。しかし故人を想い、感謝し、誠意をもって見送る心は、時代が変わっても変わりません。葬儀という儀式がどうあるべきかではなく、「心を寄せる」という本質的な部分を大切にしたい―それは、人季の葬儀への想いとも重なります。
十五夜の月は、私たちに目には見えない心のつながりを教えてくれます。儀式の形式にとらわれず、一人ひとりの想いが形になるように。誠実であたたかい「ひととき」の時間を創る―それこそが本当に大切なことではないでしょうか。
石川県では、古くから月を愛でる文化が育まれてきました。兼六園の池に映る十五夜の月は、江戸時代の加賀藩士や町人たちにも親しまれたと伝わります。能登の海に沈む月や、白山の稜線に昇る月影もまた、地域の人々にとって祈りの対象であり、大切な「ひととき」を共にしてきたのです。こうした風景を思い浮かべながら故人を偲ぶと、祈りの気持ちは一層深まっていくのではないでしょうか。 十五夜の夜、皆さまの祈りが大切な方へと届きますように。